ex1. サンクトル市街地
コツコツ、と小さな竜が窓をつついている。
竜便だ。
潮風のせいで軋んでしまった窓をどうにか開けて、竜が差し出す手紙を受け取る。
手触りのいいすべすべの紙に、豪奢な装飾が盛り込まれた封蝋がついているのを見て、私はわざとらしく眉を寄せた。
私の気持ちを知ってか知らずか、手紙を届けた郵便竜はさっさと飛び去ってしまう。手紙より小さな翼を一生懸命動かす様子は微笑ましかったが、手元の手紙を見て私は再びため息をついた。
『親愛なる許嫁殿……』
渋々封を破ってみたけれど、冒頭の書き出しが目に入った瞬間、私は読むのをやめた。
そして、手紙を掴んだまま部屋を飛び出す。
「姉さん!またあいつから手紙が来たわよ!!」
廊下から大声で呼びかけると、まあ、と細くて綺麗な声が、玄関ホールのほうから聞こえてきた。
声のほうへ早足で向かい、手紙を「本当の」受取人に封筒ごと押し付ける。
「これ!どうせこないだの返事でしょ!」
手紙を受け取った姉さんは、困ったような顔で微笑んだ。
「エレナ…あなた中身も見てないでしょう。一応エレナ宛の手紙なのだから少しは……」
「だって、また姉君のお加減は如何か〜とか、弟宛の手紙にあった件は〜とかしか書いてないでしょう!私なんかただの中継役よ!」
姉さんの言う通り、この手紙は私……エレナ・ファーグセルス宛に、私の許嫁から送られたものだ。それがどうしてこんな奇妙な事になっているのかと言うと。
答えは単純。私の許嫁のディエルディート殿下は、私の姉、リシェーラ・ファーグセルスに大層ご執心だから。
ディエルディート殿下は、文字通りこのアラスティア王国の王子様で、ゆくゆくは王様になるような方。一方リシェーラ姉さんは、このセルス領を治めるファーグセルス家の長女にして次期領主。
お互い外聞もあり、なおかつそれぞれの家を継ぐためには結婚することも叶わない。そんな悲恋の物語は……妹の私が巻き込まれる形で、今も続いていた。
ついでに言うと、私はインテリで性格の悪いディト殿下の事があまり好きではない……姉さんの前ではとても言えないけれど。正直、許嫁という間柄も勘弁願いたいくらいだ。
「仕方がないでしょう。返さない訳にもいかないけど、元々あなた宛ての手紙だもの。だから彼に送って内容を伝えてもらうしかなかったのよ」
ディト殿下……ディエルディート殿下に私が勝手に付けたあだ名だ……が、姉さん宛の手紙を許嫁の私に送り付けてくるように、姉さんも自分の許嫁……ディト殿下の弟君に手紙を送っている。その内容はもちろん、ディト殿下に宛てたものだ。
このヘンテコな文通関係が始まってから、もうかれこれ3年は経っている。その間、私がディト殿下に手紙を出したことは一度もないし、向こうの弟君から姉さん宛に手紙が来たことも一切なかった。
「いい加減2人で直接手紙を送ればいいのに。これじゃ私や向こうの弟君が手紙を返してない失礼な人みたいじゃない」
「それについては悪いとは思うけど…お互い体面というのがあるのよ」
姉さんはそう答えながら、慣れた手つきで手紙を開いて中に目を通した。私も上から手紙を覗き込んでみたけれど、内容は案の定という感じ。ひとつ、いつもの手紙と違ったのは…….。
「まあ大変。弟君が今度の休日にこちらへ挨拶に来るとあるわ。もしかすると今日か明日あたりになってしまうのではなくて?」
姉さんの言葉通り、手紙の末尾に取ってつけたようにその一文はあった。姉さんも私もびっくりして、何度もその一文を読み直す。
「そんな……だって今まで一度も来たことないじゃない。どうして急に来ることになったの?」
「それは分からないけれど……いらっしゃるなら御出迎えの準備をしなくては。レイリー、ちょっといいかしら?」
姉さんが近くにいた執事長に声をかけ、御出迎えとやらの相談をし始めた。こうなると私は口出しする余地がなくなるので、その場からこっそりと離れることにする。
一度も会ったことのない弟君の事は気になるけれど、今日は他に行きたい所もあるし。第一、来るのは一応、姉さんの許嫁だ。私には関係ないだろう。
そーっと玄関を抜けて、厩に隠しておいた外出用の服に着替える。外出用と言っても、馬竜に乗る時に着る運動用の服なので、見た目で言うとかなり地味だ。それでもこっそり城から出るには目立ってしまうので、私はさらに地味な色の外套を上から羽織った。
一連の着替えを誰にも見られていない事を確認して、私は市街地へ続く橋を渡って行く。
橋を降りた先、サンクトルの市街地は今日も人がたくさん行き来していて、とても賑やかだった。
街ではそれなりに顔が知られてしまっているので、私は外套のフードで顔を隠しながら、目的地へと進んでいく。街の人には……多分、気付かれていないだろう。
夏場に採れる果物や野菜が市場に所狭しと並べられていて、街の人はそれを値踏みするのに夢中なようだった。
人目を気にしながら大通りを抜け、街の外れへと続く道を進んでいく。目的の場所に近付くにつれ、人通りはまばらに、道は荒れたものへと変わっていった。ちらりとすれ違う人の顔を覗き見ると、あまり友だちにはなれそうにない人相が目に入ってくる。
私はちょっと引き返したくなったけれど、目的を思い出して足を早めた。今日を逃せば当分、彼には会えなくなる。そしたら次に会えるのは、一体いつになるか分からないじゃないのと。
目的の彼……傭兵ジェドと最後に会ったのは、半年くらい前のことだ。
ジェドはセルス城の警備兵として雇われた、私より少し年上の傭兵だった。領主の娘である私や姉さんに対しても一切遠慮をしない人物で、そのお陰で姉さんには嫌われていたけど、私にとっては気兼ねなく話せる数少ない友だちでもあった。
『水竜の月の初めにアジトへ戻る』
そんな話を聞いたのは、彼が警備兵の職を離れようとしていた時。今度は王都へ仕事に行くというジェドに、私が次はいつ会えるのかと問いかけた時だった。
『俺は城にわざわざ出向いたりしないからな。会いたきゃ勝手に来ればいい』
ぶっきらぼうに言い放ったジェドだったけど、私はその言葉に顔を輝かせたのを覚えている。彼が所属している傭兵団について話すのは初めてだったし、暗に会いに来てくれ、と言っているように聞こえたからだ。ジェドが王都へ行ってしまってから、私はその日を今か今かと待ち続けていた。
そして、今日はその水竜の月の1日。傭兵団のアジトはサンクトルの外れにあると聞いていたけど、この辺りまで降りてくるのは初めてなので、私は少し緊張していた。
だんだんと人影とともに建物もまばらになり、松の林から古い家がちらちらと覗く程度になっていく。こんな所に傭兵の集まるアジトなんかがあるのだろうか……?と不思議に思っていると。
「……?この匂い……」
ふと、肉が焦げたような香ばしい匂いが鼻をくすぐった。どうも、その匂いは林の中から漂ってきているらしい。そういえば、林の奥からワイワイと人の話す声も聞こえてくる。
私がそっと木の影から覗き込むと、思った通り。林の中に広場のような空間があり、武器やら家具やらが散乱していた。そこに屈強そうな男の人たちが、各々好き勝手に飲み食いしたり、寝そべっていたりしている。
ここが傭兵団のアジト……?言われてみれば確かにそんな感じだ。男達はみんなジェドのような革製の鎧を身に付けていて、いかにも戦士と言った感じだ。
私は目立たないように広場をぐるりと見渡した。ジェドのような服装の人はたくさんいるけれど、肝心の本人の姿は見当たらなかった。あんな長い黒髪の持ち主、いたら目立つと思うのだけど……。
どうしようかと私が悩んでいると、今さっき広場に着いたらしい男が、広場で談笑している他の男に話しかけるのが聞こえてきた。
「おい、団長はどこだ?話があるんだが」
「ああ、テントの奥だよ。いるとしたらな」
テント……?と思い、座っている男が指し示したほうを見ると、確かに林の間を縫うように歪な形の天幕が張られている。入口は開いているけど、奥まではよく見えなかった。
ジェドがいるとしたらあそこだろう。私はそう思い、意を決して広場を歩き出した。フードで顔を隠していたけれど、周りには何とも思われていないようだった。傭兵団と言っても、それほど仲間意識が強いわけではないのかもしれない。
目立たない程度に早足でテントへ向かい、中を少し覗き込む。
中は外から見るよりも広く感じたけれど、その分だけ物と人がめちゃくちゃに詰め込まれたみたいに、ごった返していた。広場にいた男たち同様、薄暗いテントの中も飲み食いしたり談笑したりする声でだいぶ賑わっている。
みんなジェドと同じ傭兵なんだろうけど、この人たちは昼間から何をやっているんだろう。呆れてテントに入るのも躊躇われたが、すぐに思い直す。そんな事より、ジェドを探さないと。
男たちの間をすり抜けながら、ジェドの姿を探す。テントの中に充満する汗とお酒の臭いに辟易しながらも、私はすれ違う人の顔を確認していった。違う、この人は茶髪。この人は……この人も違う。黒髪だけど、老けすぎだ。
そんな風にキョロキョロと周りを見ながら進んでいると、奥から聞きなれた声が耳に届いてきた。
「じゃ、俺はそろそろ王都に戻る。団長によろしくな」
「なんだよ、直接会って言えばいいじゃねえか……」
話している相手の静止も気に留めず、こちらに歩いてくるその顔は……
「「ジェド!」」
思わず声をあげて駆け寄ろうとする。と同時に、自分の声に別の人の声が重なっていたのに気が付いて、はっとする。そして、気が付いた時には遅かった。
「わぷっ!?」
「うわっ!?」
私はぶつかった拍子に変な声を出して、後ろへよろめいてしまう。すぐ後ろに座っていた人にぶつかりそうになったが、間一髪。私とぶつかった人が私の肩を支えたので事なきを得た。
「あ、ありがとうございます……え?」
とりあえずお礼を言おうと、その人の顔を見た瞬間。私は凍りついた。
私と同じように、マントのフードで顔を隠しているけれど、忘れるはずもないその顔は……。
「何で……殿下がここに……!?」
明るい金色の髪、深い海のような青い瞳。整った鼻筋に長いまつげ……黙っていれば文句無しの美形。そんな人、私の記憶には一人しかいない。
私の許嫁にして姉さんの想い人、ディエルディート殿下だった。正確には……そう見えただけなんだけど。
私の驚いた声に、彼は同じくらいびっくりした顔をして、慌てて辺りを見回した。さっき2人で大声を上げたせいで、すっかり周囲の注目を集めてしまっている。
まずい、さすがに部外者がこんな所にいるのがバレたら……。そう考えて私が固まっていると、彼は私の手を取ってこう囁いた。
「すまないが、黙って私に着いてきてくれ」
私が何か返事をする間もなく、彼は私の手を握ったまま足早にテントの中を進みだす。着いていくのがやっとなスピードだったけど、はぐれそうになると自分のほうに引き寄せてくれるので、なんとか置いて行かれずに済んでいる。
後ろから私たちを呼び止める声が聞こえた。だけど振り向く余裕も勇気もなく、私たちはテントをくぐり抜け、外の林に逃げ込んだ。
広場の喧騒も聞こえない場所まで来ると、彼はやっと立ち止まり、私のほうを振り向いた。
「ここまで来れば大丈夫だろう。すまない、あそこで騒ぎが起きると面倒だったのでね」
そう言いながら、彼はマントのフードを取って顔を露わにした。ふわりとした金色の髪が現れ、同時に困ったような優しい笑顔が私に向けられる。
なんとなく途中で気が付きはしたけれど、この人はディト殿下じゃない……。似ていると思ったのは一瞬で、髪と瞳の色以外、共通点なんてほとんどない。
ディト殿下の、人をバカにしたような顔とは違い、彼からは人の良さのようなものが滲み出ている。その表情は落ち着いて見えたけれど、少し子供っぽい印象も受け取れた。
そんな人を、あのディト殿下と間違えるなんて!そう思い、私は急いで頭を下げた。
「ごめんなさいっ!知り合いと人違いしちゃって……!!というかその前にぶつかって……!」
「知り合い……?いや、君が謝ることはないよ。前を見ていなかったのは私もそうだし」
彼が人のいい笑顔でそう返すので、私はますますあの陰険男と頭の中で比べてしまい、罪悪感に苛まれる。
「だけど、その後転びそうになったのを助けてくれたし、今もあそこから連れ出してくれて……」
「いやいや!私のほうこそこんな所まで……」
そこではっと気が付いたような顔をして、彼はパッと私から距離を取った。
「ちっ、違うんだ!変な気とかそういうのはなくて……!通りのほうに戻ろう!うん、そうだ!!」
さっきまでの落ち着いた雰囲気は何処へやら、彼はかぶりを振って林の奥へ歩き出そうとする。私はちょっとおかしくなって、笑いながら彼を引き止めた。
「そんなに慌てなくても大丈夫よ。ていうか、そっちじゃ建物があるほうに戻れないわよ。通りに出るならこっち」
私の言葉を聞き、振り向いた彼の顔が真っ赤になる。少し俯いて嘆息したあと、彼は最初の口調に戻ってこう言った。
「ありがとう。この辺りはあまり詳しくなくて……。私が連れて来ておいて申し訳ないのだが、案内してくれると助かるよ」
「もちろん。私もあそこから脱出出来て助かっちゃったし。これでおあいこ……」
そこまで口に出して、私は大事な事を忘れていたのに気が付いた。というか、何のためにここまで来たのだろう。
「わ、忘れてた、ジェド!!」
「はぁ、んな大声出さなくても聞こえるっつの」
聞き慣れた気だるそうな声に、私は驚いて振り向く。少し色あせた革の鎧、後ろで束ねた長い黒髪、お世辞にも良いとは言えないその目付き……。
「ジェド!よかった、やっと会えた……!」
私がそう言って駆け寄ると、久々に再開したジェドは、面倒くさそうに私を引き剥がしてくる。
「まあ来たきゃ来いって言ったのは俺か。姫は仕方ねぇとして……。なんであんたまでここにいる?つか、なんで姫と一緒にいるんだ」
ジェドが声をかけたのは、私ではなく奥にいる彼にだった。そういえば、私と一緒に彼も、ジェドの名前を呼んでいた。2人は知り合いみたいだけど……。
「もちろん君に会いに来たんだ。セルスに来る用事があったから、ついでにね。彼女とはその……ちょっとしたトラブルで」
最初は余裕のある喋り口でそう言っていたけれど、私の話になると途端に声が小さくなる。まあ、この状況は確かにどう見ても……。
「逢引か」
「いや!違うからね!!」
彼は大声で否定したけれどジェドは、ははん、と鼻を鳴らすだけで取り合わない。私はむっとしてジェドの頬をつねった。
「ちょっと、彼はそんなんじゃないから!私はただ、助けてもらったようなものよ」
「いってえな!分かったからからやめろ!」
ジェドは乱暴に私を振りほどく。その様子を見ていた金髪の彼が、不思議そうにジェドへ声をかける。
「えっと、2人は知り合い……いや、友人同士なのかい?彼女もジェドを探しに来ていたようだったが」
確かに、私みたいな女の子がジェドみたいな傭兵と友達なのは、傍から見て妙な組み合わせだろう。私は彼に頷いた。
「ええ、私の所にジェドが仕事に来ていたの。それ以来お友達よ」
「誰がいつ姫と友達に……いててて」
ジェドが心ない事を口走るので、私は乗馬用のブーツで彼の足を踏み抜く。仕返しとばかりにジェドが私の頭をぐしゃぐしゃにしてくるけれど、その久しぶりの感覚に、私は思わず笑顔になってしまった。
「ジェドにもそんな友人がいたんだね。なんだか安心したよ」
彼にそう声をかけられ、私は少し恥ずかしくなってジェドから離れた。つい子どもみたいにはしゃいでしまった。私が離れると、ジェドは一つため息をついた。そして、急に真面目な顔になって彼に向き直る。
「団長がお呼びだとよ。あんたをご指名だ」
「私を……?」
ジェドの言葉に、金髪の彼は驚いて自分を指差す。ああ、とジェドは頷く。
「案内する。姫は一人で帰れるだろ」
「え、うん……」
私が答える間にジェドは彼と共に歩きだしてしまう。彼は失礼するよ、と声をかけてくれたけど、ジェドはそれきり何も言わなかった。久しぶりに会ったのに、なんて冷たいんだろう。私は再びむっとしたけれど、考え直す。
ジェドがあんなに真面目な顔をしているんだ。きっと大事な用なんだろう。彼が結局何者だったのかは分からないけど、多分私が入る余地はない……そう、感じられた。
続